コラム2【翼をなくした鷹達】
【翼をなくした鷹達】
送電線に激突したり、交通事故に遇ったりで、現在私のところには、猛禽類7羽が居候。全てが翼を損傷していて、野に復帰できないでいます。
猛禽類の多くは肉食だが、人工飼育になるとどうしても、肉屋さんで買ってきた肉の切身…。自然界では、活きている獲物を捕まえて食べているが、居候の身分では贅沢は言えない。
基本的に、肉食の動物は消化器管が極めて原始的です。食べた獲物を自らの血肉に置き換える単純なもの。牧草を食べて蛋白質に変えたりなんていう芸当は逆立しても無理。植物質のものはまるで消化できないのです。
彼等は、活きている獲物を頭のてっぺんから爪先まで、丸ごと食べて初めて栄養のバランスが取れる。わかりやすく言えば、肉屋さんの肉では、血抜きしてあるから貧血に…、骨なしの肉ならカルシュームが不足、内臓を食べないとビタミン不足になってしまう。結局、彼等の健康維持の為には、丸ごとのオカシラツキが必要になってくるのです。
ある日、生きたウズラを仕入れてきたら、我が家の山の神の冷たい視線…。『動物を助けるために、他の命を犠牲にするなんて…』と、凄い形相で睨まれてしまった。これで怯めば鷹の方が、栄養失調でまいってしまう。罵声を浴びせられながらウズラを冷凍庫に運んだことがありました。
ヒヨコも、ウズラも不要なオスは生ゴミとして棄てられています。鷹に食べられてしまう彼等に、悲哀を感じてしまうのはわからないでもないが、棄てられずに残った方はやがて人間の口に入る。
肉料理を食べても、家畜を殺すのに直接手を下さなければ自分を残酷だとは思わなくて済む…。少々皮肉っぽい言い方だが、一般の人には、猛禽類を理解することが難しいことなのかも知れない。肉食の動物は何故か悪玉扱い(実際にはそうじゃないのだけど…)。どうも良いイメージには取られないようです。
元来、自然の生き物に人間が手を貸すこと自体不自然。しかし、彼等が私のところにやって来る経緯は自然の成り行きによるものではない。直接的にせよ間接的にせよ人間が関与していることを否定できません。人口の増加によって、彼等の生活圏を幾分かずつ狭めているのは事実、そのために犠牲になり、彼等は自由を奪われてしまったのだとしたら、不自然であろうがなかろうが、救ってやりたいと思うのがあたりまえではないだろうか?
自然の仕組みの中では、虫ケラ一匹たりとも、無駄な命はない。
その一生を終わる時、新たな命を育む糧として我が身を残す。
生き物達は他の種と網の目のように複雑に関わり合い、自然というものを形作っていて、命は尽きるのではなく、受け継がれるものだと思う。
命は自然界の共有財産。
食べる側も食べられる側も意味があっての行為。
野生動物が人間と違うのは、自然界の仕組みのなかで、自然を維持するための与えられた役割を守りながら生きていること。決して奪い取るだけの存在ではないのです。
保護活動を支えるボランティアさんの中には、減少しつつある猛禽類の繁殖技術を今のうちに確立したいと志す人もいます。居候達にも、まだまだ役目がなくなったわけでは無さそうです。